共につくる『学び合い』

新潟の高校で世界史の『学び合い』に挑戦中!教員6年目。

自分自身の力不足

 今学期に入って授業の進め方を変えたことは、何度も触れてきました。2コマ1セットにし、前半は講義形式、後半は動けるようにしています。

 

 授業の進め方を変えたことに伴い、メインで使用するプリントも変更しましたが、今まで私が配付していた授業プリントも継続して配付しています。私が作成している授業プリントには、「私が講義形式をしたら解説する内容」があらかじめ記入されています。つまり、「読めば分かる」ようにしてあります。

 

 本校の生徒たちのレベルは、「教科書レベルの文章が読める・読めないの分岐点」だと思っています。つまり、私の授業プリントを読めば分かる生徒は一定数いるはずです。しかし、生徒たちからは「先生からの説明が欲しい」という声が出てきていました。

 

 この現状をどう解釈するか、ということが非常に大切だと思います。

 

 教科書レベルの文章が「読める生徒」は、おそらく私の講義形式の解説は不要です。ということは、「先生からの説明が欲しい」という声は、教科書レベルの文章が「読めない生徒」からの声なのだと思います。

 

 今、私が講義形式で説明するという手段を取っていますが、本来であれば、教科書レベルの文章が「読める生徒」が同じように説明できるはずです。しかし、「読める生徒」による説明が広まっていかなければ、「読めない生徒」は分からないままです。したがって、「先生からの説明が欲しい」という声が出ている現状は、「読める生徒」が解釈を広められていないから、という仮説が成り立ちます。

 

 この現状を打破するには、やはり私が変わるしかないのだと思います。「生徒の姿は教員の心の写し鏡」です。私が「読める生徒」たちに「こんなものでいいんだ」、「自分が分かればOK」と思わせているのだと思います。

 

 毎年毎年、自分自身の力不足で、生徒たちの成長を頭打ちにさせてしまっている実感を持ちます。もっともっと私自身が成長していかなければ、「こんなものでいいんだ」と思わせてしまいます。

 

 毎年毎年、頭打ちにしてしまうレベルは上がっているように思いますが、それでもまだまだです。「どうしたいか、どうなりたいか」という点をしっかりと見つめて、努力をし続けていく必要がありますね。