共につくる『学び合い』

新潟の高校で世界史の『学び合い』に挑戦中!教員6年目。

「厳しい」とは

 年度末も近づき、最後の授業のクラスも出てきています。そこで、今回は「私自身に関する評価」を生徒にしてもらいました。先生が生徒を評価することは多々ありますが、生徒が先生を評価することは無いので、フェアじゃないと思ったのがきっかけです。他者評価をもらえる、という点でもメリットがあるとも思いました。

 

 

 いざやってみると、少しイメージとズレていた部分がありました。

 

 

 評価の観点として、「生徒への厳しさ」という観点を設けていました。すると、その「生徒への厳しさ」という観点について、低い評価をつける生徒が多かったのです。


    私としては、生徒へは厳しく接していると思います。彼らを「生徒」としてではなく、「大人」として対応していますし、私が求めていることはかなり高いレベルのことです。そして、それが出来なければ「ダメ」とハッキリ言いますし、その点の改善を求めています。

 

 彼らを「大人」として対応するからこそ、これらのことができます。それ故、私は生徒に「厳しく」接していると思っています。ただ、私は生徒に「怒る」ということはしません。「叱る」ことはあっても、怒鳴ったりはしません。

 

 そして、「生徒への厳しさ」の評価を低くつけた理由を見てみると、「怒らないから」といった内容の記述が多く見受けられました。こう考えると、生徒から見た「厳しさ」とは、「怒る」ということなのかもしれません。私は少し悲しくなりました。

 

 ただ、少ないですが、「生徒への厳しさ」の欄に高い評価をつけた生徒もいます。そういった生徒の理由を見ると、「求めていることのレベルが高いし、妥協しないから」や「ダメな点を『先生』としてハッキリ伝えてくれるから」ということが書いてありました。「厳しい」=「怒る」ではないと思うのです。彼らを「大人」として見ている分、かなり「厳しい」ことを要求しています。それが分かる生徒もいますし、分からない生徒もいます。

 

 

 「厳しい」=「怒る」という価値観を形成してしまったのは、我々大人の責任ではないでしょうか。この辺りも、これから問い続けていかなければならない部分かもしれません。