共につくる『学び合い』

新潟の高校で世界史の『学び合い』に挑戦中!教員6年目。

寂しいけれど

 今日は、センター試験前最後の授業のクラスがありました。それぞれが自分のやるべきことに集中していたので、私自身は、授業中に一言も発しませんでした。

 

 『学び合い』の考え方に基づいた授業を始めて、授業中に一言も発しなかったのは初めてです。それぞれが集中していたこともありますが、ちょっとした質問程度であれば、生徒同士で質問し合って解決していました。私のところまで質問しに来る必要が無いのです。それ故、私は声を発する必要が無かったのです。

 

 正直なところ、少し寂しい部分もあります。しかし、生徒たちの「自立・自律」を意識するのであれば、私自身は一歩引いて、生徒たちを手放すことも大切です。「寂しいから」といって生徒に干渉していては、「自立・自律」からは遠ざかります。

 

 こうして考えると、『学び合い』の「子ども観」である、「子どもたちは有能である。」という一文は、非常に奥が深いと思います。その中には、「子どもたちを信じて『待つ』」という教員の我慢も必要だと思います。

 

 まだまだ『学び合い』の考え方については分からないことがたくさんあると感じます。常に自分と向き合い、生徒と向き合い、考え続けていく必要があると思います。