共につくる『学び合い』

新潟の高校で世界史の『学び合い』に挑戦中!教員6年目。

「悩むことができる」ということはありがたい

 今日は文化祭でした。私は、文化祭に関してはあまり生徒に介入していません。本校は文化祭などの行事に非常に熱心なので、生徒主体で準備や当日の作業を進めていけると思うからです。そのため、私は生徒の様子を見守り、必要な声掛けや、生徒が気付かなかった点などを指摘・提案することなどの部分で介入を留めています。

 

 一方、副担任の先生は、どちらかと言うと、「こちらが動いてあげたり、言ってあげたりしないと生徒は動けない、分からない」という考えを持っている方です。そのため、文化祭の準備もかなり生徒たちの動きに介入します。

 

 たしかに、「文化祭を成功させる」という観点に立てば、「教員主導で生徒に指示を逐一出し、指示通り動かない生徒に対しては怒り、どんどんと作業を進めていく」ということがベターかもしれません。それが「生徒のため」と考える教員もいるでしょう。


    しかし、私はそう思えないのです。本当に「生徒のため」を想うのであれば、「取り返しのつく失敗」はたくさん経験させるべきだと思うのです。そして、「なぜ失敗したのか」を振り返り、「どうすれば良いのか」考え、「再チャレンジする」機会を設けるべきだと思うのです。

 

 失敗をさせないために教師が先回りをしてしまうと、生徒はその状況に依存し、先のことを考えなくなると思います。それは本当に「生徒のため」なのでしょうか。

 

 

 しかし、昨日のブログに書いたように、「任せる」ことと「放任」は違います。最近は非常に悩んでいます。今までの私は「放任」だったのではないか、と。夏休みが明け、私が関係する部分で上手くいっていない部分が増えています。それは、私が「放任」だからかもしれません。非常に悩んでいます。

 

 

 ですが、「悩むことができる」ということは、ありがたいことだと思います。「悩む」ということは壁にぶち当たっている証拠です。ここを乗り越えることができれば、もっと成長できます。生徒に成長を求めている以上、私も壁にぶち当たったところで逃げる訳にはいきません。必ずこの「悩み」も乗り越えて成長します。