共につくる『学び合い』

新潟の高校で世界史の『学び合い』に挑戦中!教員6年目。

繋がるべきところは、私ではない。

 昨日、同期とゆっくり話をする機会がありました。普段はなかなか生徒の話などをする機会はありませんが、昨日はその辺りの話ができました。その中で、少し気になったことがありました。

 

 私のクラスの生徒に、遅刻がやたら多い生徒がいます。その生徒が、同期の授業に遅刻して登校してきた際に、「1年の時より遅刻多くない?A先生(1年の時の担任)のときは遅刻少なかったのに、2年になって気が抜けてるんじゃないの?」と、同期が聞いたそうです。するとその生徒は、「いやー、今の担任(私のことです)が面倒見てくれないんですよ。だから遅刻が多いんですよ。」と言っていた、という話を聞きました。

 

 

 正直、この話を聞いたときは、かなりショックでした。しかし、冷静に考えてみると、色々と問題があると思いました。

 

 私は、「学校は生徒を『大人』にする場所」だと考えています。そして、私の考える「大人」とは、「『自立』・『自律』できる人」です。つまり、「『自分のことは自分でできる』かつ、『善悪の判断や、やらなければならないことを自分で律することができる』人」が「大人」だと思っています。(賛否両論あると思いますが、この考えを前提として話を進めます。)

 

 生徒の言い分からすると、「A先生は自分を気にかけてくれたので遅刻しなかった」ということになります。しかし、裏を返せば「気にかけてもらわないとできない」ということになります。この状態では、「自立」はできていません。

 

 「1年生のときは出来ていた」というのは、「(A先生がいたから)1年生のときは出来ていた」という部分が隠れています。そして、「1年生のときは出来ていたように『見えていただけ』で、本質は何も変わっていなかった」というところにも問題があります。先生がいないとできない、怒られないとできない、のでは、私の考える「大人」ではありません。

 

 

 アドラー心理学の視点から考えると、「遅刻すること」は手段であって、本当は「気にして欲しい」、「構って欲しい」という本音が隠れているような気がします。なぜそのような行動をするのか、という理由を考えてみると、今後の対応策が見えてくると思います。

 

 また、今回の件からも分かるように、今の私では、クラス集団を「お互いに助け合える集団」にはできていません。本来のあるべき姿としては、「先生が面倒を見るのではない」と思います。卒業したら面倒を見てくれる先生はいません。卒業後も支え合える「仲間」を作ることが大切になると思います。私の課題も見つかりました。その生徒への個別の対応や、クラス集団への対応も含め、しっかりと考えていきたいと思います。