共につくる『学び合い』

新潟の高校で世界史の『学び合い』に挑戦中!教員6年目。

「一人も見捨てないは得である」ということ

 今まで私は、「一人も見捨てないことは得である」ということの意味を本当に理解できておらず、実感を持てない部分がありながらも「語り」を行う、ということが多々ありました。今日の「語り」の中で、「一人も見捨てないことは得である」ということの意味が腑に落ちた瞬間がありました。

 

 長くなりますが、今日の「語り」は以下のようなものでした。

 

 

 「語り」のテーマ:「勉強の『技能』は全てに生きる」

 目的:「勉強のやり方と、日常生活の課題のこなし方に違いはないことを語る」

 

【板書】

 勉強:目標の設定→理解→暗記→問題演習→テスト

 

 体育祭のダンス:目標の設定→振付の理解→練習→リハーサル→本番

 

 部活:目標の設定→目標達成のための方策の理解→練習→練習試合→大会

 

 

【「語り」の内容】

 「体育祭でダンスやるよね。まず、振付を理解するよね。振付も覚えてないのにいきなりリハーサルとかしないでしょ?無理じゃん!ってなるよね。」

 「でも、なんで勉強になると、みんないきなり『問題演習』から始めたりするの?冷静に考えたら無理だよね。振付も理解してないし、練習もしてないじゃん。」

 「部活でも一緒だよね。・・・(中略)・・・。「練習試合」をして、上手くいかなかったことをまた「練習」するでしょ?当然だよね。」

 「でも、なんで勉強になると、みんな「問題演習」してそのままにしたり、「問題演習」しなかったりするの?部活でやってることと同じだけど、おかしくない?」

 (中略)

 「勉強ができる人は、いろんなことでその「技能」を生かして成功できるチャンスが広がるよ!頑張ろう!」

 

 

 今日は、上記のような「語り」を行いました。(長くなるので、かなり省略しました。)

 

 

 終わったあと、「なぜ『勉強』では当たり前のことができなくなるのか」ということを改めて考えてみたところ、「勉強は一人でやっているからだ」という結論になりました。今日の例で出した「体育祭のダンス」や「部活」はチームでやっているから、やり方がおかしいことに気づけるし、つらいときでも目標達成のために支え合えるのだと思います。しかし、勉強は一人でやっているため、やり方がおかしいことに気づかない人もいるし、つらいときに逃げてしまう人が多いのだと思います。

 

 「一人も見捨てない」という意識を持つことで、自分のやり方がおかしいことにも気づけるし、つらいときにも互いに支え合えるのだと思います。

 

 そう考えたら、「『一人も見捨てない』って得じゃん!」と自分の中で思いました。

 

 

 これが正しい解釈かどうかは分かりません。しかし、「一人も見捨てないは得である」ことを自分の言葉で語れそうな気がします。