共につくる『学び合い』

新潟の高校で世界史の『学び合い』に挑戦中!教員6年目。

『学び合い』の成果としての点数を求める

 先日、生徒からの意見で、私自身に甘い部分があったことは書きました。(以下の記事です。)

tomonkey-521.hatenablog.com


 
 本日、ある方のブログを拝見していたら、社会科の単元テストで平均点が93点を超えたという記事がありました。その中で、

>>社会は暗記物だから、算数の『学び合い』のようにテストの点数を向上させることは難しいと思っていた。結局、個々の努力によるところがあると。でも、それは間違いだった。<<

と、書いてありました。

 私自身、最近は上記のように「社会は暗記物」と考えていました。そのため、「語り」でも、

 「みんなで頑張って、みんなが分かって、みんながハッピーになることが大事だよね。でも、テストとかで戦うときは一人なんだよ。みんなで頑張るけど、最後は一人。みんなのために自分が頑張ることも大事だよね。」

というように、「一人」というワードが強調されていたように感じます。そのため、先ほどのリンクにあるような、生徒からの批判意見が出てきたのだと、今は思います。


 しかし、先ほどの方のブログでは、これまでと変えたこととして、以下のように書いてありました。

>> 単元の課題を達成するとともに、『学び合い』の成果として、テストでの高得点を子どもたちに求めた。<<


 最近の私に欠けていた考えは、ここだと思います。特に、「『学び合い』の成果として、テストでの高得点を子どもたちに求めた」という部分は、「一人」を強調していた最近の私には語れていなかった部分です。

 そもそも『学び合い』でテストの平均点が上がる理由は、「分からない子」がいなくなるからです。全員が理解した結果なのです。しかし、これまでの世界史のテストでは、「記述式の説明問題は解けるが、一問一答の暗記系の問題は弱い」という現象が起きていました。私はこれを、「理解はしているが、暗記ができていない結果だ」と解釈していました。そのため、暗記用の対策などを授業中に取り入れてきました。

 ですが、私自身が生徒に対して「『学び合い』におけるテストの点数の意味」を本気で語れていなかったことが本質的な原因なのだと思います。「『学び合い』の成果として、テストでの高得点を子どもたちに求める」ことができていなかった。これに気付けたことは、かなり大きいと思います。今後の課題として、来年度に向けて勉強しなおしたいと思います。